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シーボルト来日200周年 Vol.4 シーボルトの仕事 – 【公式】出島〜dejima〜

お知らせ

2023/07/03 復元整備室からのお知らせ
シーボルト来日200周年 Vol.4 シーボルトの仕事

出島でオランダ商館医として勤務を始めたシーボルト。彼の一番の仕事は、もちろん、これまでの医師たちと同じく、オランダ商館員たちの健康を守ることです。シーボルトが着任した文政6年(1823年)には、出島で次々と商館員が病気になり、彼はその治療にあたりました。この病気は、当時、数年前から世界中で流行していたコレラだったのではないかと推察されています。

同時に、日本人の治療にもあたっていたシーボルトは、長崎市中で次第に評判になっていきます。文政7年(1824年)3月には、阿蘭陀通詞の楢林家、吉雄家の屋敷で、日本人患者の診療と医学教育を行いました。同年6月頃には、阿蘭陀通詞の名義で、長崎郊外の鳴滝に民家と土地を購入し、学塾と植物園を設けました。出島にも、シーボルトを訪ねる人々が増え、彼は出島の橋の入口で、人々の話を聞きました。医師として腕がたち、人を嫌わず、日本人を治療するその姿に触れ、長崎の人々や多くの日本人医師たちが彼を慕ったことがわかります。

また、シーボルトと一緒に来日したヨハン・ウィヘルム・ド・ステュルレル商館長は、奉行所の役人に対して、とても優秀な医師が派遣されたこと、この医師が日本人の高位の役人が病気になった時に役に立つこと、また日本人医師に医学の教育ができることを伝えています。シーボルトの評判には、オランダ商館の広報上手なところもあったのではないでしょうか。

 そのかたわら、シーボルトはもう一つの大きな役目であった日本研究にも着手し、オランダ商館に勤務をはじめて、約1年後には、すでに100枚に及ぶ日本の植物の絵画を入手していました。日本での医療行為や教育の過程で培った人脈を用いて、日本研究を精力的に進めました。

(長崎市 出島復元整備室 学芸員 山口美由紀)

外科部屋での治療の様子 出島 拝礼筆者蘭人部屋 展示模型より

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