ついに出島に上陸したシーボルト、今回は出島内の彼の住居について紹介します。
シーボルトが出島に来て最初に入居したのは、これまでの商館医同様外科部屋でした。表門から入り、突き当たりを右に曲がってすぐの場所にあった外科部屋は、「あらゆるヨーロッパ的快適な設備をそなえた家」であったと、彼は自身の日記に書き残しています。彼は船で運んできたピアノをこの部屋に配置し、普段の仕事のかたわら音楽も楽しみました。また、商館医の住居には、科学や医学など様々な知識を求め、熱心な蘭学者や医学者が訪れるのが通例で、例にもれず彼のもとにも多くの日本人が訪れました。その盛況ぶりはかなりのもので、後には市中での授業も許されました。
しかし、シーボルトにとって外科部屋は少々不便だったようです。彼は、出島の東側、庭園の中にある空き家に目を付け、商館長に庭園の家の使用を願い出ました。商館長はこれを了承し、1824年12月、オランダ領東インド政庁に申請、シーボルトの住居として庭園の家を使用するための予算の支出が決定され、めでたく移り住むことができました。彼は、ここにたくさんの洋書や珍しい自然物などを収集します。その様子はまるで、今でいう博物館のようでした。領主や奉行など、出島に要人が訪問する際には、庭園の家を訪れ、シーボルトの小さな博物館を観覧することが恒例になりました。
現在、外科部屋が建っていた場所には新石倉が、庭園の家が建っていた場所にはミニ出島が設置されています。まさにシーボルトがいた19世紀前半の出島の様子が分かるこのミニ出島で、ぜひシーボルトの新旧の住居を探してみてくださいね。
(長崎市 出島復元整備室 学芸員 和田奈緒)