1823年6月28日(文政6年5月20日)、シーボルトを乗せたドリュー・ヘジュステルス号(三人姉妹の意)は、バタビア(インドネシアのジャカルタ)を出帆し、約1月半ほどの航海を経て、8月8日長崎の港に到着しました。8月12日(7月7日)には、水門を通っていよいよ出島に上陸、これからシーボルトの日本における波乱万丈な物語が始まります。
シーボルトが軍医として赴任したバタビアは、オランダの東洋貿易の拠点であり、ここにはオランダ領東インド総督府が置かれていました。当時の総督ファン・デル・カペレンは、停滞していた日蘭貿易を見直し、改善するためには、まずは広く日本研究を行うことが重要と考え、その役目を熱意あふれるシーボルトに託しました。医師としての技量はもちろんのこと、自然科学全般についての知識と興味を持つシーボルトが、適任と考えられたのです。日本での6年間にわたる調査研究のために、オランダ政府から提供された資金は42,972グルデン、当時の日本の金額に換算すると約3600両にあたります。現在の日本の金額では、1両=約10万円で計算すると3億6千万円、1両=約5万円としても1億8千万円にあたり、たいへん大きな金額であったことがわかります。
さて、長崎に入港したシーボルト、その印象はどんなものだったのでしょうか。『日本』第1巻には、人々の手でつくられた景観がたいへん美しく、豊かであると驚嘆している様子が記録されています。
また、ドイツ人であるシーボルトの話すオランダ語は、日本の阿蘭陀通詞たちより発音が不正確であったため、怪しまれ、自分は「山オランダ人」であるため訛りがあると言って切り抜けたエピソードは有名です。
この場所で、お滝さんや阿蘭陀通詞たち、川原慶賀ら、多くの日本人との出会いが待っていました。
(長崎市 出島復元整備室 学芸員 山口美由紀)