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【出島町人を語ろう】 Vol.7 有名な出島町人 Part1 高嶋四郎兵衛 – 【公式】出島〜dejima〜

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2025/01/01 出島運営管理事務所からのお知らせ
【出島町人を語ろう】 Vol.7 有名な出島町人 Part1 高嶋四郎兵衛

これまでのコラムでは、出島町人の名前や移り変わり、役割などをご紹介してきました。これからは数回にわたり、よく知られている出島町人について、取り上げます。

最初は、出島の築造に出資した出島町人の一人である高嶋四郎兵衛です。

高嶋(高島)四郎兵衛は、江戸時代に長崎で代々町年寄を務めた高島家の当主が継ぐ名前になります。

初代高島四郎兵衛茂春は、天正2年(1574)に長崎に移住し、のちに町を代表して取りまとめを行う頭人になり、文禄元年(1592)には町年寄に任じられました。以後、高島家当主は、11代四郎太夫茂敦(高島秋帆)まで町年寄を世襲しました。

出島の築造が始められた寛永11年(1634)頃の高島四郎兵衛は、3代四郎兵衛茂卿でした。茂卿は、島原の乱が起こった際に長崎警備に尽力した功労により、他の町年寄とともに江戸に召され、時服2領と銀100枚を賜ったといわれています。

高島家はその後も町年寄として、長崎の治世の中心的な役割を担いますが、1730年代頃の出島図では、出島町人として名前の記載がないことから、この頃までに株を売却または譲渡したと推察され、出島町人として出島に関わることはなくなったことがわかります。

高島家の本邸は旧大村町(現在の万才町の一部)にあり、その坪数は1,024坪と広大で、また、長崎奉行所西役所や出島とは大変近い距離に位置しました。11代四郎太夫茂敦(高島秋帆)の頃、天保9年(1838)の大火で本邸が焼失したため、以後、高島秋帆は小島郷にあった別邸に移りました。このため当地は高島秋帆旧宅として知られ、出島と同じく大正11年(1922)に国の史跡に指定されました。江戸後期に活躍した西洋砲術家高島秋帆が、その才覚から波乱万丈な人生を送ったことは、よく知られています。

(長崎市 出島復元整備室 学芸員 山口美由紀)

高島秋帆旧宅 
原爆により旧宅は倒壊し、
現在は石垣や建物遺構が残る

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