有名な出島町人紹介第2弾は、前回紹介した高嶋四郎兵衛と同じく、出島の築造に出資した出島町人の一人、平戸道喜をご紹介します。
平戸道喜は、博多、平戸で海外貿易に従事した貿易商人で、慶長10年(1605)頃来崎し、本博多町に居を構えました。本博多町は、博多からの商人たちが多く移住した地であることから名前が付けられた町で、現在は周辺にあった平戸町や島原町などとともに合併され、万才町という名前に変わっています。市の内外に倉庫や別荘など7か所所有したといわれており、別荘地のうち1か所は、道喜の死後、正保3年(1646)に妻によって晧臺寺に寄進され、その末寺として永昌寺が創建されました。寺は現在も瑞光山永昌寺として、長崎市玉園町に現存しています。
道喜は晩年、平戸から小曽根に改姓しています。小曽根と聞いて、ピンとくる方もいらっしゃるかもしれませんが、明治4年(1871)、勅により御璽・国璽印刻するほど篆刻に長け、また、維新後に志士たちと深く交流があったことが知られる、小曽根乾堂の家祖にあたります。
また、道喜については、朱印船貿易家であった平戸助太夫、もしくは慶安元年(1648)に眼鏡橋を重修した石工の平戸好夢と同一人物であるとする説もありますが、明確なことはわかっていません。
出島築造の命を受けたことからも、道喜が当時の長崎の豪商の一人であったことは疑いようがありませんが、彼が長崎でどのようなことをしたのか、彼の死後、子孫である小曾根家の人々と出島との関係がいつ頃まで続いたのかなど、謎は残ります。
(長崎市 出島復元整備室 学芸員 和田奈緒)
玉園町に現存する永昌寺 万才町に建つ小曽根邸の跡を示す石碑