出島という言葉は、本来はこのオランダ商館が存在した出島の地と、その周辺の出島町一帯を指す言葉です。出島は江戸時代から出島町でありましたが、明治時代に大きく姿を変え、その後町堺町名の変更により、現在の出島町となりました。出島の西方の沿岸では、大型船が接岸できるよう、地先の埋立、岩壁築造、前面海域の浚渫が行われ、大正13年(1924)に出島岩壁が完成しました。太平洋戦争後には、ここから多くの外国人捕虜が、故郷に帰るために出航したと伝えられます。現在は、この岩壁には飲食店が建ち並ぶ商業施設「出島ワーフ」があり、今でもその名前が引き継がれています。
さて最近では、出島が江戸時代に異文化交流の拠点であったこと、オンリーワンの貿易活動が行われていたこと、新しい技術や学問、思想を求めて日本各地から長崎に才能ある人々が集まったこと、などが出島という言葉のイメージとなり、現在では、国際的な交流や取引の舞台であること、新たな枠組での起業、本体から離れ自由な裁量で結果を出す分野、などを指して“出島らしい”という定義がうまれています。
このため、土地としての出島の定義から離れ、施設や組織、企業体など、様々な枠組みに出島という名称が付けられる機会が多くなっています。ゆくゆくは、ここ国指定史跡の出島を元祖出島、本家出島という日がくるのかもしれません。
往時、出島が交流の地であったという本質的な価値に基づき、これに紐づいて行われる各種の交流は、付加的な価値となり、長崎を構成するDNAの一つとして育ってゆきます。
交流のその先にある融合、他を尊重する観点など、出島の歴史に学ぶことは多くあります。出島を基点に生まれる新たな価値とブームが、これからもいろいろな方の手から育まれることを願い、史跡指定100周年を記念したリレーコラムを閉じます。
(長崎市 出島復元整備室 学芸員 山口美由紀)