わが国を表す、日本という言葉は、古くは7世紀後半ごろから、用いられたと言われます。
出島は、江戸時代を通じて、海外と日本の交易の窓口となり、また海外に日本を知らしめる役割を果たしました。出島に蘭館医として赴任したケンペルは『日本誌』を著し、その著書の中で、「NIPPON」について紹介しました。またシーボルトも『日本』、『日本動物誌』『日本植物誌』を著し、多くの人々がこれらの書物から「NIPPON」についての情報を得ました。このほか、オランダ商館長たちも出島滞在や江戸参府旅行を通じて部分的に日本の風俗に接し、帰国後、日本に関する著作を刊行することもありました。なかには原題がJAPANと表記されるものもありますが、「ジャパン」とは「日本」という表記の中国南部の発音「ジパング」に由来するものです。その音そのままに、「NIPPON」と記されているものも知られています。このように長きにわたり、出島に訪れた異国の人々らによって日本に関する情報発信が行われました。
また、このころ出島から輸出された日本の漆器や磁器などの美術工芸品や、日本の風俗や
風景を描いた浮世絵も、ヨーロッパにおいて絶大な人気を博し、日本の文化は海外で広く知られることになります。幕末の開港以降は、アメリカも日本の商品の重要な市場となり、日本の美術工芸品はさらに注目を集め、欧米においてジャポニスム(日本趣味)の流行の波をまきおこすこととなりました。
鎖国の中で、海外に開かれた島、出島が担った役割が見えてきます。
(長崎市 出島復元整備室 学芸員 山口美由紀)