大正11年(1922)10月12日、出島は出島和蘭商館跡(でじまおらんだしょうかんあと)として国の史跡に指定されました。
今年(2022)は指定から100年の節目の年にあたります。
これを記念して、令和4年度は本コーナーでも史跡指定100周年をテーマとして特集し、「出島の史跡整備」と「出島の価値を考える」のシリーズ二本立てでお送りします。
Vol.1である今回は、指定当時の出島の姿をご紹介いたします。
本資料は大正11年(1922)に北東側から出島を撮影した写真です。
中島川を挟んだ左手が出島、右手が江戸町で、現在、車が往来している出島橋付近から撮られています。
中島川には艀(はしけ)が浮かび、出島には木造建築や蔵が建ち並んでいます。
平成になってから復元した建物と見紛うようですが、往時のオリジナルの建物です。
左手前の二階建ての建物は当時営業していた旅館で、漆喰(しっくい)壁の蔵が二棟並んだ奥に、川岸までせり出した一階建ての石造り倉庫があります。
この石倉は、慶応元年(1865)に建てられた石倉と考えられ、この石倉が戦後荒廃していたのを長崎市が昭和51年(1976)、一部旧部材を用いて復元しました。
現在は、総合案内所や出島シアターとして活用されています。
慶応2年(1866)に出島が外国人居留地の一部となると、明治から大正にかけて、出島周辺の土地の改変が進められました。
明治21年(1888)には、中島川変流工事により出島の北側が約18メートル削られました。
写真左手に見える護岸のラインは既に削られた後のものであるため、現在と同じラインを見ることができます。
明治32年(1899)には居留地の制度が廃止され、出島ははじめて、日本人を含めた誰もが住める場所へと変わりました。
明治37年(1904)、第2期長崎港湾改良工事によって出島の南側が大きく埋め立てられ内陸化し、出島は新しい長崎のまちの一部として開かれていきました。
(長崎市 長崎学研究所 学芸員 スターツ美来)