これまでのコラムでもご紹介しました『出島麁絵図』(天保9年(1838)写・長崎市蔵)や『出島図』(元文~寛保初め(1736~42)・長崎歴史文化博物館蔵)のような平面図には、出島の中に建物の位置と寸法が描かれ、その内部に所有者である出島町人の名前が記されています。このような資料から、当時の出島町人の姓名や移り変わりを知ることができます。最初に出島の築造に尽力した出島町人はよく知られていますが、その後18世紀前半頃までには、すべての出島町人が入れ替わってしまいます。その後も、幕末に至るまで次々と出島町人は変遷し、おおむね半世紀ほどで所有権が移り変わっていることがうかがえます。
彼ら出島町人の様子が具体的に描かれている絵画資料は少ないのですが、『石崎融思筆唐蘭館絵巻』(長崎歴史文化博物館蔵)の中に、出島町人を見つけることができます。
この絵巻は、唐絵目利であった石崎融思の作で、製作年は享和元年(1801)頃と推定されています。長い絵巻には、長崎港へ阿蘭陀船が入港する様子、出島への荷揚げの様子、島内での暮らしの様子が順番に描かれています。
そのうち出島町人の姿が見られるのは、水門前の荷揚場あたり。一人は、荷揚場にて、運ばれてくる積荷(貿易品)を待っています。もう一人は積荷を乗せた艀(はしけ)に乗り、その荷物番を行っている様子です。後ろ姿ですが、輸入品の箱の上に座り、手には煙管を持っているのでしょうか。オランダ船到着後、貿易品の荷卸しが始まると、これらを出島に運ぶ仕事、この監視を行う役目を出島町人は担っていました。出島町人の実態はなかなか掴みにくく、不明な点も多いのですが、多忙な交易期間中は、大事な貿易品に関する仕事を任されていたことがうかがえます。
(長崎市 出島復元整備室 学芸員 山口美由紀)