有名な出島町人について紹介する第3弾は、18世紀中頃から19世紀前半頃まで出島町人であった鉅(おう)鹿(が)家について取り上げます。
出島町人の姓名が記された出島図の中で、元文・寛保年間(1736~44)に製作された出島図、及び天保9年(1838)に写された出島麁絵図の双方に出島町人として名前が見られる人物として鉅鹿清三郎が挙げられます。
清三郎は、明の遺臣魏之琰(ぎしえん)を祖とする鉅鹿家の6代目にあたります。
魏之琰は、中国福建省福州府の出身で、安南(現在のベトナム)貿易を行っていました。寛文12年(1672)、魏之琰は、その子貴とともに長崎に移住し住宅唐人になり、さらに貴は改姓し鉅鹿清兵衛と名のりました。鉅鹿の姓は、之琰が徳川家光から中国の魏の発祥地、河北省鉅鹿の地名から賜わったものと言われています。
鉅鹿家は貿易商として活躍していましたが、5代祐五郎は幕府に先祖伝来の書画古器を献上し、7代祐十郎の時に稽古通詞から小通詞末席、その後小通詞まで昇進しました。
さて、5代祐五郎の子であった6代清三郎が先に紹介した出島町人ですが、この頃鉅鹿家が、中国貿易だけでなく、オランダ貿易にも出島町人という役割で関わっていたことがわかります。 西山本町に今も残る鉅鹿家の祖魏之琰とその兄魏毓(ぎいく)禎(てい)の墓は、17世紀後半の特徴的な形態をなす中国人墓地として県の史跡に指定されています。その子孫にあたる鉅鹿家は、中国とオランダ、双方との関係を持った、長崎らしい出島町人の一人といえるのではないでしょうか。