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【出島町人を語ろう】Vol.3 出島をつくった人々 初代出島町人 – 【公式】出島〜dejima〜

お知らせ

2024/07/01 復元整備室からのお知らせ
【出島町人を語ろう】Vol.3 出島をつくった人々 初代出島町人

 寛永11年(1634)、三代将軍徳川家光公の命を受けて、長崎の岬の突端を埋立て、人工の島を造る工事が始まりました。この場所は浅瀬で、干潮時には小さな島になりましたが、満潮時には海中になるところ。この新たな築島の造成に出資を行ったのが長崎の有力な25名の町人たちでした。

 いずれも富裕な町人ばかりで、なかには町年寄や糸割符年寄(輸入する生糸の価格の決定と一括購入の権利をもつ商人)、町乙名を兼ねる有力者、朱印船貿易に携わっていた家柄の人々などが含まれます。

 この築島の造成工事は、往時の長崎奉行榊原飛騨守の差配のもとで行われ、約2年の歳月を経て、寛永13年(1636)の夏に完成、早速ポルトガル人の入居が進められました。

 築造時の工事の記録は見つかっていないため、その当時の様子を知るには、平戸オランダ商館の商館長ニコラス・クーケバッケルの日記の記述が参考になります。日記には「ポルトガル人の宿舎、すなわち牢獄を訪ねに行ったが、(略)、海側は石と土とで出来て水中より浮き立っており、(略)」と記され、この島の役割がうかがえます。

 この完成した築島は、出島と呼ばれ、造成工事及び島内の蔵や住居の建築に出資した25名の町人らは、初代の出島町人になりました。のちにポルトガル人に国外退去が命じられ、出島が空き屋となった時に、平戸からのオランダ商館移転を幕府に強く働きかけたのは、糸割符年寄らであった出島町人たちでした。

現在、出島の南側の護岸石垣のうち、中段から上段部は自然災害等により度重なる改修が行われていますが、根石から下段部分には、築造当初期の石垣が残っています。

(長崎市 出島復元整備室 学芸員 山口美由紀)

出島築造時の出島町人
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