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出島の歴史 – 【公式】出島〜dejima〜

出島の歴史

寛永13年(1636)に築造された出島は、安政6年(1859)、オランダ商館が閉鎖される218年間に渡り、
わが国で唯一西欧に開かれた窓として日本の近代化に大きな役割を果たしてきました。
ここでは、出島の誕生から終焉までの歴史をご紹介します。

室町時代

西暦年号長崎での出来事日本・世界の出来事
1543天文12ポルトガル人、種子島に漂着、鉄砲伝来
1549天文18フランシスコ・ザビエル、鹿児島に上陸。
キリスト教を伝える
1550天文19ポルトガル船、平戸に来航
1562永禄5大村純忠、横瀬浦を開港
1565永禄8ポルトガル船、福田に入港
1567永禄10ポルトガル船、口ノ津入港
アルメイダ、長崎で布教
1570元亀元長崎開港協定成立
1571元亀2ポルトガル船、長崎入港
長崎開港 六町の町割を実施
1573天正元室町幕府滅亡

安土・桃山時代

西暦年号長崎での出来事日本・世界の出来事
1580天正8大村純忠が長崎・茂木をイエズス会に寄進スペイン、ポルトガルを併合
1581天正9オランダ独立宣言
1582天正10天正遣欧少年使節、長崎を出港本能寺の変、信長没
1585天正13豊臣秀吉、関白となる
1587天正15秀吉、伴天連追放令を発布
1588天正16豊臣秀吉が長崎、茂木、浦上を
イエズス会より没収、直轄地とする。
1590天正18天正遣欧少年使節、長崎帰着秀吉、全国統一
1592文禄元長崎に奉行・町年寄を置く秀吉、朱印船貿易許可
1597慶長2日本26聖人殉教事件
1600慶長5関ヶ原の戦い
オランダ船リーフデ号、豊後に漂着、
イギリス東インド会社設立
1602慶長7オランダ東インド会社設立

江戸時代

西暦年号長崎での出来事日本・世界の出来事
1603慶長8徳川家康、江戸幕府を開く
1604慶長9糸割符制度設立
1605慶長10長崎が天領となる
1609慶長14オランダ、平戸商館を設置オランダ、スペインより独立
1612慶長17幕府天領に禁教令を発令
1613慶長18イギリス、平戸商館を設置幕府、全国に禁教令を発令
1614慶長19長崎糸割符会所を設置大坂冬の陣
1615元和1大坂夏の陣
1616元和2中国船以外の貿易を平戸・長崎に限る
1623元和9平戸のイギリス商館閉鎖
1633寛永10奉書船以外海外渡航禁止
(第1次鎖国令)
1634寛永11出島築造に着手、眼鏡橋が完成日本人の海外渡航禁止
(第2次鎖国令)
1635寛永12唐船の入港を長崎港に限定 日本人の海外渡航、
海外在住日本人の帰国全面禁止、
大型船建造禁止
(第3次鎖国令)
1636寛永13出島完成ポルトガル人を出島に収容
(第4次鎖国令)
1637寛永14島原・天草一揆(~1638)
1639寛永16ポルトガル人の来航禁止
(第5次鎖国令)
1641寛永18平戸オランダ商館、長崎出島に移転(鎖国体制完成)
1649慶安2外科医カルパス・スハンベルヘン来日
1650慶安3和蘭特使フレイシユス、江戸参府
1662寛文2出島内に伊万里焼の店を開店
1673延宝元英船リターン号が長崎に入港、
通商要求、幕府は拒否
1678延宝6出島橋を石橋にかけ替える
1689元禄2唐人屋敷完成
1690元禄3オランダ商館医ケンペル来日
1696元禄9脇荷蔵建造
1698元禄11長崎会所を設置
1699元禄12出島水門建造
1707宝永4出島に水樋を設置
1715正徳5正徳新令を発布
1716享保元享保の改革が始まる
1720享保5幕府、洋学を解禁
1774安永3『解体新書』出版
1776安永5アメリカ独立宣言
1789寛政元フランス革命
1790寛政2江戸参府を4年に1度に変更
1798寛政10出島大火
1804文化元ロシア使節レザノフ長崎入港
1808文化5フェートン号事件
1809文化6カピタン部屋完成
1810文化7フランス、オランダを併合
1815文化12ネーデルランド王国設立
杉田玄白「蘭学事始」
1823文政6シーボルト来日
1824文政7シーボルト、鳴滝塾を開設
1826文政9シーボルト、出島薬草園にケンペル、
シュンベリー記念碑建立
1828文政11シーボルト事件
1840天保11アヘン戦争(~1842)
1841天保12天保の改革(~1843)
1850嘉永3最後の江戸参府が行われる
1853嘉永6ロシア使節プチャーチン長崎に来航ペリー浦賀に来航
1854嘉永7日英和親条約を長崎で調印
(長崎・函館を開港)
1855安政2日蘭和親条約を長崎で調印
海軍伝習所を開設
1857安政4ポンペ、医学伝習教官として来日
1858安政5安政五カ国条約を調印
1859安政6出島の和蘭商館廃止、領事館となる
1860万延元外国人居留地完成桜田門外の変
1861文久元出島一部水門脇及び西側埋築南北戦争
1864元治元出島一部西側埋樂
1866慶応2出島を外国人居留地に編入
1867慶応3出島の南側を遊歩道として埋築大政奉還

明治・大正・昭和時代

西暦年号長崎での出来事日本・世界の出来事
1869明治2出島町・築町間に出島新橋架橋
1885明治18内務省直轄で中島川の変流工事起工
1893明治26第1期港湾改良工事完成(出島北側削られる)
1904明治37第2期港湾改良工事完成(出島姿消す)日露戦争
1920大正9出島沿岸修築工事着手
1922大正11出島和蘭商館跡を内務省告示で
史跡名勝天然記念物保存法に基づき国の史跡指定
1939昭和14第二次世界大戦(~1945)
1941昭和16太平洋戦争
1951昭和26復元整備事業に着手(史跡内の公有化に着手)
1954昭和29出島オランダ屋敷の一部庭園の復元工事起工式
1957昭和32出島オランダ屋敷跡整備事業の完成
1974昭和49明治洋館・旧内外クラブを改装して出島資料館とする
1978昭和53出島史跡整備審議会を設置
1980昭和55旧出島神学校半解体復元
1982昭和57出島史跡整備審議会より7項目の柱からなる
史跡出島和蘭商館跡復元整備構想の答申を受ける
1987昭和62出島資料としての集大成である『出島図』を発行

平成時代

西暦年号長崎での出来事日本・世界の出来事
1990平成2市制100周年事業の一環として出島表門の復元
1993平成5出島史跡整備研究会が整備計画の基本案を策定する
教育委員会に出島復元整備室を設置
教育文化施設として都市計画決定
1994平成6都市計画事業認可を受ける
出島史跡整備審議会(第二次)を設置
1996平成8審議会の答申を得て、復元整備事業に着手
2000平成12 第Ⅰ期復元建造物の5棟
(ヘトル部屋ほか4棟)が完成
南側及び西側護岸石垣の一部を復元
2006平成18第Ⅱ期復元建造物の5棟
(カピタン部屋ほか4棟)が完成
南側護岸石垣を復元
2016平成28第Ⅲ期復元建造物の6棟
(乙名詰所ほか5棟)完成
2017平成29出島表門橋を架橋

出島の誕生と南蛮貿易

  • 01
    ポルトガル船、日本へ

    天文12年(1543)、種子島を通じて鉄砲が伝来し、天文18年(1549)にキリスト教が伝えられると、各地の大名は貿易や信仰のため、ポルトガル船の入港を求めるようになりました。大航海時代のポルトガル貿易は、インドのゴアを拠点に東南アジアのマラッカ、マカオや長崎などで貿易を行い、約3年をかけて再びゴアに戻るという方法で行われていました。 ポルトガル貿易で日本に輸入されたものは、生糸、絹織物、羅紗(らしゃ)、更紗(さらさ)、象牙、珊瑚樹、砂糖などで、日本からは銀を中心に、鉄、屏風、刀剣などが輸出されていました。特に珍しいものとしては、ルソン総督が秀吉にゾウを贈ったように、贈り物としてトラ、クジャクなどの動物もいました。

  • 02
    長崎開港

    天文19年(1550)、平戸に1隻のポルトガル船が入港しました。これが長崎県内に入港した最初のヨーロッパの貿易船で、永禄4年(1561)には5隻のポルトガル船が入港しました。その後、大村領横瀬浦(よこせうら)(現在の西海市)が新しい貿易港となり、さらにポルトガル人は横瀬浦から福田(現在の長崎市福田本町)へと貿易の拠点を移すことになります。 永禄8年(1565)開港された福田は、直接外海に面しているという欠点があったため、貿易の拠点はさらに島原半島の口之津港へ。しかし、ポルトガル人たちが大村領内での貿易を希望したため、候補地として挙げられた長崎港の調査が始まり、元亀(げんき)2年(1571)、ポルトガル船1隻、ポルトガルがチャーターした唐船1隻の合計2隻の入港によって長崎港は開港。以後、毎年のようにポルトガル船が訪れるようになり、長崎はポルトガル貿易港として急速に発展していきました。

  • 03
    禁教令

    天正8年(1580)、大村純忠は長崎の町を教会知行地として、イエズス会に寄進しました。 その後、豊臣秀吉は天正15年(1587)、宣教師追放令を出し、長崎を没収、直轄領としました。さらに慶長元年12月19日(現在の暦で、1597年2月5日)には京都や大坂地方で捕らえられた宣教師やキリシタンを長崎へ送り、西坂の丘で処刑しました。 これが26聖人の殉教です。その後、江戸幕府は徳川家康以来、貿易を奨励していたため、キリスト教に関しては寛大でした。キリスト教は、広く深く信仰され、天文18年から寛永7年(1549~1630)の約80年間にキリスト教に改宗した人は、約76万人に達したといわれています。 しかし、幕府はしだいにキリスト教を取り締まるようになり、慶長17年(1612)、ついにキリスト教禁止令を発令。高山右近をはじめとした多くの信者たちがマニラやマカオに追放されました。その後、取り締まりはさらに強化され、拷問による棄教の強要、密告の奨励、残酷な処刑など、キリシタンへの迫害はさらに厳しさを増していきました。

  • 04
    出島の築造

    幕府は、キリスト教の布教を阻止するために当時市内に雑居していたポルトガル人を収容する島をつくりました。これが出島です。出島は、寛永13年(1636)に「出島町人」と呼ばれる25人の町人の共同出資によって完成した人工の島で、この25人の町人たちはいずれも長崎を代表する豪商でした。 出島は、海を埋め立てて築いた島ということから「築島(つきしま)」、その形状が扇型をしていたことから「扇島」とも呼ばれていましたが、海の中に島をつくるという発想、工事の設計・監督にあたった人物、その土木技術の詳細については、現在でも謎に包まれています。

和蘭商館「出島」

  • 05
    オランダ船・デ・リーフデ号

    慶長5年(1600)、1隻のオランダ船が豊後(現在の大分県)の海岸に漂着しました。これをきっかけに日本とオランダの交流は始まりました。この船は、デ・リーフデ号で、航海士だったウィリアム・アダムス(のちの三浦按針(あんじん))は、徳川家康に優遇され、外交顧問として活躍しました。 按針から情報を得たオランダは、慶長14年(1609)に2隻の貿易船を日本に派遣し、貿易の許可を得て平戸に商館を開設。続いてイギリスが平戸に商館を開くと、ポルトガル、オランダ、イギリス、中国、そして朱印船貿易を行っていた日本など、貿易競争はますます激しさを増していきました。 寛永14年(1637)の島原の乱によって、ポルトガルに対してますます警戒を強めた幕府は、ポルトガル人を追放。一方オランダは、この島原の乱で原城を砲撃、幕府への忠誠を示すことで信頼を獲得し、やがて日本との貿易を独占していったのです。

  • 06
    オランダ商館、平戸から出島へ

    寛永16年(1639)、ポルトガル人は出島から追放され、築造されたばかりの出島は無人の地となりましたが、寛永18年(1641)には平戸からオランダ商館が移転されました。出島は、その後、安政の開国までの約218年間、西欧に開かれた唯一の窓として、わが国の近代化に重要な役割を果たしました。

  • 07
    オランダ風説書(ふうせつがき)

    寛永18年(1641)、幕府は、キリスト教禁令とポルトガル人追放を徹底するために、宣教師の潜入や、ポルトガル人など旧教勢力に関する情報提供をオランダ人に義務づけました。これはオランダ人が日本渡航を許可されるための重要な条件の一つとされ、オランダ船が入港すると、通詞(つうじ)は商館長を訪れて情報を聞き取り、翻訳し、通詞と商館長が署名・捺印して長崎奉行が江戸に送ったといわれています。この文書は風説書と呼ばれていました。

オランダ東インド会社の盛衰

  • 08
    オランダ東インド会社の誕生

    1598年、アムステルダムとロッテルダムの商人たちの出資によって組織された船隊は、東インドに向かい、さらに進んで香料の主産地であるモルッカ諸島のバンダン、アンボイナにまで到達し、貿易取引に成功しました。しかし、多くの船団の派遣によって利益の減少が生じるようになったため、1602年、諸会社を合同して連合オランダ東インド会社(マークはV.O.C)を設立しました。この会社は、国家から特別の保護と権限が与えられており、アフリカの喜望峰(きぼうほう)からマゼラン海峡にいたる地域で独占的に貿易を行うこと、この地域で条約や同盟を結ぶことや軍事力を行使すること、貨幣を鋳造すること、地方長官や司法官を任命することなど、さまざまな権限が認められていました。そして出島にもオランダ東インド会社の船が来航したのです。

  • 09
    出島の貿易

    江戸時代、わが国に来航したオランダ船は、1621年から1847年までの227年間に延べ700隻以上にのぼります。オランダ船が長崎港に入港する時期は、季節風の関係から旧暦の6月、7月が最も多く、バタビア(現在のジャカルタ)を出港し、バンカ海峡、台湾海峡などを経て、女島諸島、さらに野母崎をめざしてやってきました。 オランダ船が出島沖に碇をおろすと、船の出航地や乗組員の人数などの取り調べや積荷の検査、そして2、3日後から荷役作業が始まり、この作業が終わると入札が行われていました。 江戸時代の初期にオランダから輸入していた主なものは、ベンガルやトンキン産の生糸、オランダに輸出していた主な品は銀でした。江戸時代の中期以降は、羅紗(らしゃ)、ビロード、胡椒(こしょう)、砂糖、ガラス製品、書籍などを輸入し、銅、樟脳(しょうのう)、陶磁器、漆(うるし)製品などが輸出されていました。

  • 10
    オランダ東インド会社の解体

    長崎港の開港以来、さかんに行われていたオランダと日本の貿易も、18世紀にはいるとしだいにかげりが見えはじめてきました。その原因の一つが、日本の貿易制限政策。当初、江戸幕府は、貿易に何も制限を与えていませんでしたが、貞享2年(1685)にオランダの貿易額を銀3,000貫目に制限。さらに正徳5年(1715)には、オランダ船の入港を年2隻、貿易額を銀3,000貫目、そして寛政2年(1790)には、年1隻、貿易額銀700貫目にまで制限されました。 その一方で18世紀に入ると、東インド会社の経営もしだいに悪化し、特に1789年に起きたフランス革命はオランダにとって大きな打撃となりました。1795年にはフランス革命軍がオランダに進入し、オランダはフランス軍に占領され、バタビア共和国が誕生。1799年には東インド会社は解散に追い込まれました。

出島の終焉(しゅうえん)

  • 11
    開国の要求・諸条約の締結

    隣国、清で勃発したアヘン戦争の結果、清は香港の割譲、広州、上海など5港を開港、南京条約によって開国を強いられることになりました。アヘン戦争勃発の情報は、長崎に入港したオランダ船からもたらされましたが、有効な手だてを見つけることができない幕府に対して、オランダ政府は開国勧告の親書を提出。弘化3年(1846)には最初のアメリカ公式使節が来日、嘉永6年(1853)にはペリーが浦賀に来航するなど、開国を求める動きが活発化し、翌年の安政元年(1854)にはわが国初の条約「日米和親条約」が締結され、続いてイギリス、オランダとも和親条約が結ばれました。 安政3年(1856)には、在日アメリカ総領事ハリスが通商条約締結交渉のために来日しました。軍事力を背景に威嚇的に交渉を進めるハリスを前に、幕府はついに安政5年(1858)日米修好通商条約に調印。これが実質的な鎖国体制の崩壊、江戸幕府の崩壊につながっていったのです。

  • 12
    オランダ商館の廃止

    安政2年(1856)の日蘭和親条約の締結によって、オランダ人の拘束は解除され、同5年(1858)の日蘭通商条約によって日本人も出島に出入りができるようになりました。それとともに、出島の商館はオランダ領事館を兼ねるようになり、貿易業務もネーデルランド貿易会社に移行され、オランダ商館はその長い歴史の幕を閉じることになったのです。そして慶応2年(1866)、出島は外国人居留地に編入されました。

  • 11
    出島の消滅

    安政の開国後の出島は、長崎を近代的な貿易都市に改良するため、西側の水門付近や南側が拡張されるなど、地形が大きく変わっていきました。その後、周囲が埋め立てられ、さらに明治18年(1885)に起工した中島川変流工事では出島の北側約18mが削り取られました。そして明治37年(1904)の港湾改良工事で、その扇形の島は完全に姿を消してしまったのです。