今回は第3弾、中止になってしまった企画展解説の代わりに、展示されている『うつわ』についてご紹介させていただきます。
日本では古来より、紅(べに)の赤色は、人々を災厄や病気から守るとされ、人生の節目となる祝事や祭りの際に、紅を付ける習慣がありました。江戸時代には、紅は、唇をはじめ頬・目元・爪に、時には化粧下地としても用いられました。紅花からつくられる紅は、当時たいへん貴重で高価であったため、紅に似せた代用品を用いることもありました。
出島とその対岸にあたる江戸町の発掘調査では、たくさんの紅皿(べにさら)、紅碗(べにわん)が出土しました。紅碗には、「大坂新町於笹紅(おささべに)」の文字が見られ、当所で製作、販売されたことが分かります。この紅を塗布する容器である紅碗は、長崎の波佐見製の磁器でした。これらの紅碗は、出島に出入りしていた遊女らが用いていたものと思われます。
大坂新町は、17世紀初めに遊郭が設置され、同町には紅屋、紅染屋、紅白粉所など遊里の需要を支える店舗が構えられていました。出島蘭館医シーボルトは、この紅碗を日本人の民俗資料の一つとしてオランダに持ち帰り、現在もライデン民族学博物館には未使用の紅碗が収蔵されています。
紅は、はじめは主に白粉と混ぜて頬に塗るものでしたが、次第に唇にも塗るようになりました。とくに紅を濃く塗って、玉虫色に青く光らせる風潮が流行り、そこから笹紅色が生まれました。文化10年頃には、高級な紅を多く用いるのを嫌がり、墨の上に紅を重ねて、真鍮色とするようになりました。江戸時代を通じて、白粉と紅には流行がありましたが、総じてうすく赤くするのが良いとされました。紅の原料は紅花で、「紅屋」「紅染屋」で作られましたが、製作技法は秘伝とされ、大量の紅花を必要とすることから、紅はとても高価であったと言われています
写真は、往時の製法でつくられた現代の紅です。紅は器いっぱいに入れるわけではなく、器の内面に薄く塗布されました。光の反射で、笹色の光沢がみられます。江戸時代、空気に触れると紅の劣化が進むため、紅を入れる容器は蓋付きか、または碗をひっくり返して伏せて保管をしていました。
明るい気分で、唇に紅をさす、はやくそんな時節を迎えられますように。
長崎市 出島復元整備室
<お知らせ>
出島企画展 ジャパニーズビューティ うつわに描かれた女性たち
会期は、令和3年2月23日まで。