出島復元プロジェクト

出島は江戸時代、市中に雑居していたポルトガル人を移しキリスト教布教を抑え貿易を統制するために幕府が長崎の有力町人25人に築造させた人工の島です。1636年に完成しましたが直後の島原の乱ののち1639年にはポルトガル人は追放され、1641年からは平戸から移設されたオランダ商館が幕末まで日本とヨーロッパをつなぐ重要な役割を果たしました。しかし開国後は徐々に周囲が埋め立てられ扇の形は町の中に埋もれいてきます。やがてその姿のみならず日本の近世、近代に大きな役割を果たしてきた史実さえも歴史とロマンという言葉と引き換えに消え去って行く運命にありました。

しかし現在、商館長ブロムホフや商館医シーボルト達が活躍した19世紀初頭(1820年ごろ)の激動の時代の出島を復元する壮大なプロジェクトがようやくその姿を見せ始めました。

【プロジェクトの概要】

町人の出資により築造された出島はもともと町人の所有で、開国後もそのほぼ全てが民間の所有のままでした。これを復元するために土地の公有化に着手したのは戦後まもない昭和26年(1951年)で、すべての公有化が完了したのは平成13年(2001年)、実に50年の歳月を要しました。

現在までに19世紀の建物16棟の復元を終えています。この中には銅蔵(どうぐら)と呼ばれた軒高がひときわ高い蔵があります。この蔵には東北や四国を始め日本中から銅が運び込まれ輸出されていました。長崎の港からオランダ船や唐船で輸出された銅の量は、最盛期には世界の30%ほどのシェアーを占めていたといわれ、出島からはオランダ船によりアジアからヨーロッパまで広範囲に銅が供給されていました。

まさに世界的な規模で重要な役割を果たしていた出島。その復元は、着手から60年を越えています。扇型の形を甦らせるのみならず近世・近代へと世界に貢献してきた日本の歴史を発信する一大プロジェクトです。

oudeplaatdejima②伝川原慶賀筆「.長崎出島之図」

【築造から復元までの歴史】

寛永11年(1634)に始まった工事は2年後の寛永13年(1636)に完成し、ポルトガル人が入居しましたが、翌年におこった島原の乱でキリスト教徒を支援したポルトガルとの国交は途絶え寛永16年(1639)国外追放となります。莫大な費用をかけ築いた出島は一時無人島となりましたが長崎の町人たちの幕府への働きかけにより寛永18年(1641)、平戸にあったオランダ商館を出島に移転させることになりました。

以後、218年間、西洋に開かれた唯一の窓口として貿易のみならず、文化交流や蘭学をはじめ日本の近代化の原点として大きな役割を果たしました。

幕末の開国後は、安政6年(1859)オランダ商館は廃止されオランダ領事館が置かれ、慶応2年(1866)に外国人居留地に組み入れられました。出島にもオランダ以外の外国の商社が進出し坂本龍馬率いる海援隊など幕末の志士たちも訪れ明治維新までの激動の時代へと続いていきました。

明治以降、出島周辺の埋め立てが進み明治37年(1904)、出島はその姿を消してしまいましたが、その後大正11年(1922)10月12日に「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されました。

現在、出島がはたした歴史的価値を未来に伝えるため出島復元整備事業が進んでいます。商館長ブロムホフやシーボルト達が活躍した19世紀初頭の16棟の建物が復元されています。このほかにも海援隊との取引が行われた幕末の石倉や明治の洋館など時代の変遷を体感することができます。

西洋との出会いから、鎖国を経て幕末、明治そして現在へと脈々と続く、ダイナミックな日本の近世・近代化の歴史をお楽しみください。

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今は国道に面し、出島への出入り口のような門は、かつては海に面し、右側からは輸入品が運び入れられ左側からは輸出品が運び出されていました。ここから世界中の物資や情報が日本にもたらされ、銅や銀そして陶磁器などが世界に供給されていたと思うと小さいけど偉大な門であったことがうかがえます。

この門をもう一度世界に通じる海に戻してあげる。これが出島復元プロジェクトの長期計画です。

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