オランダ東インド会社の盛衰

オランダ東インド会社の誕生

1598年、アムステルダムとロッテルダムの商人たちの出資によって組織された船隊は、東インドに向かい、さらに進んで香料の主産地であるモルッカ諸島のバンダン、アンボイナにまで到達し、貿易取引に成功しました。しかし、多くの船団の派遣によって利益の減少が生じるようになったため、1602年、諸会社を合同して連合オランダ東インド会社(マークはV.O.C)を設立しました。この会社は、国家から特別の保護と権限が与えられており、アフリカの喜望峰(きぼうほう)からマゼラン海峡にいたる地域で独占的に貿易を行うこと、この地域で条約や同盟を結ぶことや軍事力を行使すること、貨幣を鋳造すること、地方長官や司法官を任命することなど、さまざまな権限が認められていました。そして出島にもオランダ東インド会社の船が来航したのです。

出島の貿易

江戸時代、わが国に来航したオランダ船は、1621年から1847年までの227年間に延べ700隻以上にのぼります。オランダ船が長崎港に入港する時期は、季節風の関係から旧暦の6月、7月が最も多く、バタビア(現在のジャカルタ)を出港し、バンカ海峡、台湾海峡などを経て、女島諸島、さらに野母崎をめざしてやってきました。
オランダ船が出島沖に碇をおろすと、船の出航地や乗組員の人数などの取り調べや積荷の検査、そして2、3日後から荷役作業が始まり、この作業が終わると入札が行われていました。
江戸時代の初期にオランダから輸入していた主なものは、ベンガルやトンキン産の生糸、オランダに輸出していた主な品は銀でした。江戸時代の中期以降は、羅紗(らしゃ)、ビロード、胡椒(こしょう)、砂糖、ガラス製品、書籍などを輸入し、銅、樟脳(しょうのう)、陶磁器、漆(うるし)製品などが輸出されていました。

オランダ東インド会社の解体

長崎港の開港以来、さかんに行われていたオランダと日本の貿易も、18世紀にはいるとしだいにかげりが見えはじめてきました。その原因の一つが、日本の貿易制限政策。当初、江戸幕府は、貿易に何も制限を与えていませんでしたが、貞享2年(1685)にオランダの貿易額を銀3,000貫目に制限。さらに正徳5年(1715)には、オランダ船の入港を年2隻、貿易額を銀3,000貫目、そして寛政2年(1790)には、年1隻、貿易額銀700貫目にまで制限されました。
その一方で18世紀に入ると、東インド会社の経営もしだいに悪化し、特に1789年に起きたフランス革命はオランダにとって大きな打撃となりました。1795年にはフランス革命軍がオランダに進入し、オランダはフランス軍に占領され、バタビア共和国が誕生。1799年には東インド会社は解散に追い込まれました。