和蘭商館「出島」

オランダ船・デ・リーフデ号

慶長5年(1600)、1隻のオランダ船が豊後(現在の大分県)の海岸に漂着しました。これをきっかけに日本とオランダの交流は始まりました。この船は、デ・リーフデ号で、航海士だったウィリアム・アダムス(のちの三浦按針(あんじん))は、徳川家康に優遇され、外交顧問として活躍しました。

按針から情報を得たオランダは、慶長14年(1609)に2隻の貿易船を日本に派遣し、貿易の許可を得て平戸に商館を開設。続いてイギリスが平戸に商館を開くと、ポルトガル、オランダ、イギリス、中国、そして朱印船貿易を行っていた日本など、貿易競争はますます激しさを増していきました。
寛永14年(1637)の島原の乱によって、ポルトガルに対してますます警戒を強めた幕府は、ポルトガル人を追放。一方オランダは、この島原の乱で原城を砲撃、幕府への忠誠を示すことで信頼を獲得し、やがて日本との貿易を独占していったのです。

オランダ商館、平戸から出島へ

寛永16年(1639)、ポルトガル人は出島から追放され、築造されたばかりの出島は無人の地となりましたが、寛永18年(1641)には平戸からオランダ商館が移転されました。出島は、その後、安政の開国までの約218年間、西欧に開かれた唯一の窓として、わが国の近代化に重要な役割を果たしました。

オランダ風説書(ふうせつがき)

寛永18年(1641)、幕府は、キリスト教禁令とポルトガル人追放を徹底するために、宣教師の潜入や、ポルトガル人など旧教勢力に関する情報提供をオランダ人に義務づけました。これはオランダ人が日本渡航を許可されるための重要な条件の一つとされ、オランダ船が入港すると、通詞(つうじ)は商館長を訪れて情報を聞き取り、翻訳し、通詞と商館長が署名・捺印して長崎奉行が江戸に送ったといわれています。この文書は風説書と呼ばれていました。