出島の終焉(しゅうえん)

開国の要求・諸条約の締結

隣国、清で勃発したアヘン戦争の結果、清は香港の割譲、広州、上海など5港を開港、南京条約によって開国を強いられることになりました。アヘン戦争勃発の情報は、長崎に入港したオランダ船からもたらされましたが、有効な手だてを見つけることができない幕府に対して、オランダ政府は開国勧告の親書を提出。弘化3年(1846)には最初のアメリカ公式使節が来日、嘉永6年(1853)にはペリーが浦賀に来航するなど、開国を求める動きが活発化し、翌年の安政元年(1854)にはわが国初の条約「日米和親条約」が締結され、続いてイギリス、オランダとも和親条約が結ばれました。
安政3年(1856)には、在日アメリカ総領事ハリスが通商条約締結交渉のために来日しました。軍事力を背景に威嚇的に交渉を進めるハリスを前に、幕府はついに安政5年(1858)日米修好通商条約に調印。これが実質的な鎖国体制の崩壊、江戸幕府の崩壊につながっていったのです。

オランダ商館の廃止

安政2年(1856)の日蘭和親条約の締結によって、オランダ人の拘束は解除され、同5年(1858)の日蘭通商条約によって日本人も出島に出入りができるようになりました。それとともに、出島の商館はオランダ領事館を兼ねるようになり、貿易業務もネーデルランド貿易会社に移行され、オランダ商館はその長い歴史の幕を閉じることになったのです。そして慶応2年(1866)、出島は外国人居留地に編入されました。

出島の消滅

安政の開国後の出島は、長崎を近代的な貿易都市に改良するため、西側の水門付近や南側が拡張されるなど、地形が大きく変わっていきました。その後、周囲が埋め立てられ、さらに明治18年(1885)に起工した中島川変流工事では出島の北側約18mが削り取られました。そして明治37年(1904)の港湾改良工事で、その扇形の島は完全に姿を消してしまったのです。