出島と長崎

阿蘭陀通詞(おらんだつうじ)と商館員

阿蘭陀通詞は、オランダ語の通訳や貿易業務などに重要な役割を果たしました。通訳は平戸の商館時代にも存在しましたが、オランダ商館の出島移転とともに、通訳は阿蘭陀通詞として公認され、長崎の地役人の組織に組み込まれるなど、その性格は大きく変化しました。阿蘭陀通詞は、大通詞、小通詞、稽古通詞の三段階を基本とし、通詞の会所を出島に設置、当番の通詞1~2名が昼夜勤務したといわれています。
出島に滞在したオランダ人は、18世紀まではオランダ東インド会社の社員でした。オランダ船が来航していない期間は、商館長、次席商館員をはじめ約15人ほどが勤務していました。商館長は、初代のヤックス・スペックスから最後のドンケル・クルチウスまで全部で163人。滞在期間は1年となっていましたが、ヘンドリック・ドゥーフのように、14年間も滞在した商館長もいました。

蘭学の普及

蘭学は、和蘭(阿蘭陀)の学問の略称で、江戸時代にオランダ人やオランダの書物から取り入れられたヨーロッパの学問のことです。江戸時代の初め頃、オランダ語の習得は、阿蘭陀通詞のみに限られていましたが、享保5年(1720)、幕府の洋書輸入の解禁によって阿蘭陀通詞からオランダ語を学ぶことが許されると、それ以後、オランダ語の学習がさかんに行われるようになりました。
出島には、初代のヘッセリンフ以来、150人ほどの商館医が赴任してきました。しかし、医学を学ぼうと長崎を訪れた人たちは、出島のなかに入ることが困難だったため、吉雄塾や楢林塾など阿蘭陀通詞の家に寄宿して指導を受けた後、機会を得て、出島内の外科部屋で商館医の治療を見学したといわれています。
そうしたなか、文政6年(1823)に来日したシーボルトは、医学教育のための学校を開くことを許可され、鳴滝塾を開設。全国から集まった塾生たちを宿泊させて指導にあたる一方、市民の治療、さらに日本に関する博物学、民族学の研究を行うなど、わが国の蘭学の発展に大きな功績を残しました。

船の来ない出島

1810年、オランダがフランスに併合され、翌11年にはバタビアがイギリスの占領下に置かれたため、1810年から3年間、出島には1隻のオランダ船も入港しませんでした。
この間、食料品などの必需品は、幕府が無償で提供し、長崎奉行は毎週2、3回、人を遣わして不足品があるかないかを問い合わせていました。その他の支払いについては、長崎会所の立て替えを受けてしのいでいましたが、それでも文化9年(1812年)には、その総額が8万200両を超えました。この頃、商館長所有の「ショメール家庭百科辞典」を幕府が600両で購入したという記録は、当時のオランダ商館の厳しい財政難を物語っています。
その後、1815年にはネーデルランド王国が成立。つまりこの5年間、世界中でオランダ国旗がひるがえっていたのはここ出島だけだったのです。