出島の誕生と南蛮貿易

ポルトガル船、日本へ

南蛮人来朝図屏風(長崎歴史文化博物館蔵)
南蛮人来朝図屏風(長崎歴史文化博物館蔵)

天文12年(1543)、種子島を通じて鉄砲が伝来し、天文18年(1549)にキリスト教が伝えられると、各地の大名は貿易や信仰のため、ポルトガル船の入港を求めるようになりました。大航海時代のポルトガル貿易は、インドのゴアを拠点に東南アジアのマラッカ、マカオや長崎などで貿易を行い、約3年をかけて再びゴアに戻るという方法で行われていました。

ポルトガル貿易で日本に輸入されたものは、生糸、絹織物、羅紗(らしゃ)、更紗(さらさ)、象牙、珊瑚樹、砂糖などで、日本からは銀を中心に、鉄、屏風、刀剣などが輸出されていました。特に珍しいものとしては、ルソン総督が秀吉にゾウを贈ったように、贈り物としてトラ、クジャクなどの動物もいました。

長崎開港

天文19年(1550)、平戸に1隻のポルトガル船が入港しました。これが長崎県内に入港した最初のヨーロッパの貿易船で、永禄4年(1561)には5隻のポルトガル船が入港しました。その後、大村領横瀬浦(よこせうら)(現在の西海町)が新しい貿易港となり、さらにポルトガル人は横瀬浦から福田(現在の長崎市福田本町)へと貿易の拠点を移すことになります。
永禄8年(1565)開港された福田は、直接外海に面しているという欠点があったため、貿易の拠点はさらに島原半島の口之津港へ。しかし、ポルトガル人たちが大村領内での貿易を希望したため、候補地として挙げられた長崎港の調査が始まり、元亀(げんき)2年(1571)、ポルトガル船1隻、ポルトガルがチャーターした唐船1隻の合計2隻の入港によって長崎港は開港。以後、毎年のようにポルトガル船が訪れるようになり、長崎はポルトガル貿易港として急速に発展していきました。

禁教令

雲仙地獄切支丹迫害図(長崎市教育委員会蔵)
雲仙地獄切支丹迫害図(長崎市教育委員会蔵)

天正8年(1580)、大村純忠は長崎の町を教会知行地として、イエズス会に寄進しました。
その後、豊臣秀吉は天正15年(1587)、宣教師追放令を出し、長崎を没収、直轄領としました。さらに慶長元年12月19日(現在の暦で、1597年2月5日)には京都や大坂地方で捕らえられた宣教師やキリシタンを長崎へ送り、西坂の丘で処刑しました。 これが26聖人の殉教です。その後、江戸幕府は徳川家康以来、貿易を奨励していたため、キリスト教に関しては寛大でした。キリスト教は、広く深く信仰され、天文18年から寛永7年(1549~1630)の約80年間にキリスト教に改宗した人は、約76万人に達したといわれています。
しかし、幕府はしだいにキリスト教を取り締まるようになり、慶長19年(1614)、ついにキリスト教禁止令を発令。高山右近をはじめとした多くの信者たちがマニラやマカオに追放されました。その後、取り締まりはさらに強化され、拷問による棄教の強要、密告の奨励、残酷な処刑など、キリシタンへの迫害はさらに厳しさを増していきました。

出島の築造

幕府は、キリスト教の布教を阻止するために当時市内に雑居していたポルトガル人を収容する島をつくりました。これが出島です。出島は、寛永13年(1636)に「出島町人」と呼ばれる25人の町人の共同出資によって完成した人工の島で、この25人の町人たちはいずれも長崎を代表する豪商でした。
出島は、海を埋め立てて築いた島ということから「築島(つきしま)」、その形状が扇型をしていたことから「扇島」とも呼ばれていましたが、海の中に島をつくるという発想、工事の設計・監督にあたった人物、その土木技術の詳細については、現在でも謎に包まれています。